THE NOTORIOUS B.I.G.

NotoriousBIG

The Notorious B.I.G(ザ・ノトーリアスB.I.G)
本名:Christopher George Latore Wallace (クリストファー・ジョージ・レトア・ウォレス)
生年月日:1972年5月21日生まれ、1997年3月9日没

アメリカNYブルックリン生まれで、The Notorious B.I.G(ザ・ノトーリアスB.I.G)、Biggie(ビギー)、Biggie Smolls(ビギー・スモールズ)としてその名を知られる。1994年にデビューアルバム「Ready to Die(レディトゥダイ)」を発売すると、アメリカ西海岸のヒップホップシーンがメインストリームを占めていた当時、東海岸のヒップホップシーンを代表する存在となる。翌年の95年、幼馴染を率いて結成したJunior M.A.F.I.A(ジュニアーマフィア)でチャートの上位を独占。彼自身の名義となる2ndアルバムを制作中、ウォレスは、ヒップホップシーンの中で加速する東西海岸抗争に積極的に関わっていくことになる。

1997年3月9日、ウォレスはL.A.滞在中に何者かによって射殺される。彼の死後16日後に発表された2枚組のアルバム「Life After Death」は、全米アルバムチャート1位を獲得、2000年にヒップホップアルバムとしては異例のダイアモンドディスク(1000万枚売り上げ達成)の認定を受けている。彼の死後、さらに2枚のアルバムが発売され、彼名義では、全米で1,700万枚の売上を達成している。

 

1972–94: Early life, arrests, career beginnings and first child
1972年5月21日、ジャマイカ人の保育士の母ヴォレッタ・ウォレスと、同じくジャマイカ系移民の溶接工で、一時政治家としても活動していた父ジョージ・レトアの一人息子として生を受け、NYブルックリンのクリントンヒル地区で育つ。2歳の時に父親が家族の元を去ると、母は2つの仕事を掛け持ちしながら彼を育てた。小学校では、優秀な生徒として複数の賞を獲得していたウォレスだったが、10歳になると既に巨体だったことから彼は「BIG」と呼ばれており、12歳になると校外でドラッグの販売を行うようになる。仕事で家を不在にすることが多かった母親は、ウォレスがドラックの販売に手を染めていたことに関して、彼が大人になるまで知ることがなかった。

高校生になると、ウォレスは、クリスチャン系の高校から自らの意思で公立高校への転校を果たす。当時、この公立校には将来のビッグネームであるJay-ZやBusta Rhymesが在籍していた。彼の母によれば、高校時代も依然として良い生徒のひとりだったウォレスだが、公立高校への転校後は、その知識をひけらかすような態度が目立つようになる。

17歳で高校を中退すると、ウォレスは更に犯罪に手を染めるようになっていく。1989年、ブルックリンの中で不当に武器を所持していたとして、5年間の保護観察処分を受けたウォレスは、90年に期間中に保護観察項目を破ったとして、再度逮捕される。続く91年には、ノースカロライナにおいてコカインの取引を行ったとして逮捕。保釈されるまでの9か月間を拘置所で過ごした。

ウォレスは、10代の頃からラップを始め、ストリートライブや、ローカルグループのthe Old Gold Brothersやthe Techniquesでパフォーマンスを行う。9か月間の留置所生活を終えた後は、Biggie Smalls名義でデモテープを作成するようになる。この名義自体は、75年の映画「Let’s Do It」のキャラクターからきており、1m91cm、140-170㎏の巨体を持つ彼の異名となった。このデモテープは当初商業的な目的で作成されたものではなかったが、当時NYを拠点に活動し、Big Daddy Kaneとも親交のあったDJ Mister Ceeがプロモーションを行ったことで、Source誌の編集者の耳に止まった。

1992年3月、ウォレスはSource誌のコラム“Unsinged Hype”の中でネクストカマーとして取り上げられ、他のデビューしていないアーティストと共に、レコーディングの機会を与えられる。こうして出来上がったデモテープは、UptownレコードのA&RでプロデューサーのSean Combsの目に留まり、契約交渉の場が設けられることになった。ウォレスは、その場でレーベルと契約を結び、同レーベルのアーティストHeavy D &Boyzと、シングル「A Buncha Niggas」 中で共演を果たしている(同楽曲は、アルバム「Blue Funk」に収録されている。)

ウォレスがレーベルとの契約を結んだすぐ後に、彼をレーベルにスカウトしたCombsがUptownを解雇され、自身で新たなレコード会社を立ち上げた。ウォレスは 彼を追って、92年の半ばにはCombsのレーベルであるBad Boyレコードとの契約を果たした。

93年の後半、ウォレスは、元々のニックネームであるBiggie Smallsの名前が商業的に別の者によって既に使われていたことから、The Notorious B.I.Gの新たな名義でMary J Bligeの「Real Love」のリミックスを手掛け、これが一躍脚光を浴びる。「Real Love」は全米ビルボードチャートで最高7位を記録し、ウォレスは続くMary J Bligeの楽曲「What’s the 411」のリミックスも手掛けることになる。この成功で、93年中にはNeneh Cherry(シングル「Buddy X」)や、レゲーアーティストであるSuper Cat(「Dolly My Baby」。Super Catもウォレス同様Cobsから見出されたアーティストのひとり)といったアーティストのリミックスを手掛けた。 続く94年の7月には、LL Cool J 、Busta Rhymesといったアーティストと共に、レーベル仲間であるCraig Mackの「Flava in Ya Ear」のリミックスを手掛け、これはビルボードチャート第9位にランクインした。

 

1994: Ready to Die and marriage
94年8月、ウォレスはR&BシンガーのFaith Evansと結婚。その4日後、ウォレスは両A面シングル「Juicy/Unbelievable」を発表。これが27位にランクインし、 ソロ名義としては初となるチャート上位獲得を果たす。

この両A面シングルをリードシングルに構成されたデビューアルバム「Ready to Die」は94年9月に発表され、ビルボード13位を獲得。ミリオンセラーを達成する。 当時、全米音楽チャートの中では、西海岸を拠点にしたアーティストによるヒップホップ楽曲が上位を独占していたが、このアルバム発表を受けて、Rolling Stone誌が「今まで西海岸が独占していた市場を、東海岸のラップが盛り返していくだろう」との見方を示した。これにより、アルバムは更なる評判を呼び、回顧主義的な作品に改めて評価が向けられることとなる。アルバムから更にシングルカットされた「Big Poppa」は、25万枚の売上を達成し、全米ラップチャートの1位を獲得。Faith Evansをフィーチャーして作られた「One More Chance」もベストセラーとなった。

 

1995: Junior M.A.F.I.A., Conspiracy and coastal feud
95年8月、ウォレスは仲間を率いてグループJunior M.A.F.I.A. (“Junior Masters At Finding Intelligent Attitudes”)を結成。アルバム「Conspiracy」を発表する。Junior M.A.F.I.Aは、昔からの友人や幼馴染であるラッパーによって構成され、現在もソロで活躍している Lil’ Kim や Lil’ Ceaseもそのメンバーのひとりである。アルバム「Conspiracy」は10万枚の売上を達成、ウォレスをフィーチャーしたシングル「Player’s Anthem」や「Get Money」はそれぞれ、ゴールドディスク(10万枚売上達成)、プラチナディスク(25万枚売上達成)の認定を受けている。ウォレスはグループ活動やソロ活動の傍ら、R&Bアーティストとのコラボレーションも継続して行い、R&Bグループ 112と「Only You」で、 Total とシングル「Can’t You See」で共演。どちらの楽曲もトップ20を獲得している。 この年の終わりには、ウォレスは全米POPチャートの中で、最も売れた男性ソロアーティスト/ラッパーとして選出されている。

95年7月には、Sourceマガジンが「The King of New York Takes Over(NYで王位を引き継ぐ男)」のキャプションを付けて特集を実施。8月には同誌の中で、ベストニューソロアーティスト、作詞家オブザイヤー、ベストライブパフォーマンスオブザイヤー、ベストデビューアルバムオブザイヤーの項目でウォレスの名前が挙げられており、ビルボードアウォードでは、ラップアーティストオブザイヤーを受賞している。

この年の商業的な成功の影で、友人で元アシスタントのTupac Shakurの事件をきっかけにウォレスはヒップホップシーンにおける東西抗争に段々とのめり込むようになる。95年4月に行われたVibe誌のインタビューで、Shakur が、94年11月に自身が5発もの銃弾を浴び、何十万もの貴金属を盗まれた事件で、Uptownレコードの創設者である Andre Harrell、 Sean Combs、そしてウォレスの名をあげ、彼らが事件に関与していたのではとの非難を行った。これを受けて、ウォレスをはじめとする3人はたまたま同日事件が起こったマンハッタンのスタジオにいたことは認めたものの、事件の関与自体は否定した。ウォレスは「あの事件は、本当にたまたま、同じスタジオにいた時に起こったんだよ。でもShakur自身、あれが何故彼の身にあの時起こったのかなんて分かっちゃいないのさ。単に俺を非難する材料を見つけただけなんだ。」とのコメントを残している。

実際に誰の仕業なのか、うやむやになったこの事件は、のちの2012年に、真犯人をJames Rosemond aka Jimmy Henchmanとする新説も出ている。

これとは別の事件で拘留されていたShakurは、社会復帰した後、95年10月に Death Row レコードと契約。こうしたいきさつを経て、現在でも商業的なライバルである両レーベルの間で激しい抗争が行われるようになっていく。

 

1996: More arrests, Tupac Shakur’s death and second child
ウォレスは自身ソロ名義では第2弾となるアルバムの制作を95年9月に開始した。アルバムは、NY、トリニダードトバコ、LAで制作された。東西抗争のいわばアイコンになっていたウォレスが、メディアに激しく取り上げられたことや、彼自身が自動車事故で怪我をしたことが原因で何度も中断を余儀なくされ、アルバムの制作期間は18か月にも及んだ。ただ、このアルバム制作と並行して、ウォレスはMichael Jackson のアルバム 「HIStory」の中でコラボレーションを果たしている。

96年3月、マンハッタンのナイトクラブで、サインを求めるファンに対して恐喝を行い、タクシーの窓を破壊し、そこから引きずり下ろしたファンを殴打したとして逮捕される。この事件で、彼は法廷で有罪判決を受け、100時間の社会奉仕活動を言い渡される。96年半ばには、ホームタウンのニュージャージー州ティーネックで薬物と武器所持の容疑でも逮捕されている。

96年、Shakurはウォレスをこき下ろす内容のシングル「Hit ‘Em Up」を発表。ウォレスのイメージやスタイルを敢えて使い、当時疎遠となっていたウォレスと妻の関係に言及するなど徹底的な挑発ソングを作成した。ウォレスは、これに対しての言及を控えていたが、97年のラジオインタビューで「あれは彼のスタイルではないよね。」というコメントを行っている。

Shakurは96年の9月にLAのドライブウェイで複数回の銃弾を受けて、病院に搬送されるも、その6日後に銃創の傷が原因で亡くなった。この事件が公になるとすぐに、事件の黒幕はウォレスなのではないかという噂がまことしやかに世間には出回った。

2002年に発表されたLos Angelesタイムスの特集記事、「誰がTupac Shakurを殺害したのか?」の中で、記者のChuck Philipsは、警察の証言や複数のメディアソースから、「殺害にはSouthside Cripsというギャング団が関わっていて、直接の動機は殺害される数時間前にShakurがメンバーのひとりを殴打したことが原因であるが、事件に使われた銃に関しては、ウォレスがその代金を支払った」という説が発表された。ウォレスの家族はこの説を否定、LAでShakurが殺害されたその日、ウォレス本人はNY、ニュージャージーにいたと証言している。New Yorkタイムスもこの特集を受けて、「特集記事は根拠のないでっちあげ」とコメントを行っている。

96年10月、Faith Evansがウォレスとの間にChristopher “C.J.” Wallace, Jrを 出産。翌月には、Junior M.A.F.I.A. のメンバーであるLil’ Kimが彼女ソロ名義となるアルバム「Hard Core」をリリース。ウォレスのディレクションを受けて誕生したこのアルバム制作時には、両者の間で“愛人関係”が結ばれていたとの証言もある。

 

1997: Life After Death and car accident
2ndアルバム「Life After Death」は元々名前の後に、「Til Death Do Us Part(死が二人を分かつまで)」というサブタイトルがついていたが、自動車事故に遭い、しばしの間車椅子生活、その後杖を使う生活を強いられたことで、その部分は削除された。97年1月、ウォレスは95年5月に友人でライブプロモーターを側近と共に殴って怪我をさせた罪で410万円の和解金を支払うよう判決を受けている。彼は、複数の暴行事件への関与が疑われたが、その他の強盗事件に関しては全て無罪判決を受けている。

 

March 1997 shooting
97年2月、ウォレスはアルバムとアルバムのリードシングル「Hypnotize」のため制作されたミュージックビデオのプロモートのためLAを訪れる。2nd アルバムの「Life After Death」は97年の3月末のリリースが決定されており、プロモーションを続けていたウォレスは、3月8日、LAで開催されたSoul Train Music AwardでToni Branxsへのプレゼンターとして登場、複数の観客からブーイングを受けている。この授賞式のあと、ウォレスはVibeマガジン、Qwestレコードが主催したパーティーに出席。この会場にはゲストとして、Faith Evans, Aaliyah、Sean Combs、Bloods and Crips団のギャングメンバーが複数名参加していた。

翌9日の深夜、12:30頃、パーティー会場の予想以上の混雑を受けて、側近と共にホテルに戻る途中、ウォレスは自身の乗っていたSUVに赤信号で近づいてきた車から放たれた凶弾に倒れ、翌1時に搬送先の病院で死亡が確認された。

彼の死に関する事件は未だ解決されておらず、動機や犯人像について複数の説が囁かれている。この事件が明らかになるとすぐに、その性格から(両者ともに、道中で撃たれていることから)Shakurの事件の関連性が取正される。これに関しては97年Los AngelesタイムスのChuck PhilipsとMatt Laittが、実行犯の有力候補とされている Cripsのメンバーが自身の経済的困難を理由に犯行に及んだのではないかという説を発表しているが、真相はいまだ明らかになっていない。

彼の死後16日後に発表された2枚組のアルバム「Life After Death」は、全米アルバムチャート1位を獲得、2000年にヒップホップアルバムとしては異例のダイアモンドディスク(1000万枚売り上げ達成)の認定を受けている。彼の死後、さらに2枚のアルバムが発売され、彼名義では、現在までで全米累計1,700万枚の売上を達成している。

 

■ALBUM■
Ready to Die(1994)filepicker-flmvxuuysl6w8mxacvpf_ready_to_die

Conspiracy (with Junior M.A.F.I.A.)(1995)JR

Life After Death(1997)BAD73011CD

Born Again(1999)The_Notorious_Big-Born_Again-Frontal

Duets: The Final Chapter(2005)The_Notorious_BIG-Duets_The_Final_Chapter-Frontal

Greatest Hits(2007)The_Notorious_Big-Greatest_Hits-Frontal

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